和珥坐赤坂比古神社の前の坂といわれる

 是に天皇、其の大御酒盞を取らしめ任(なが)ら御歌曰(みうたよ)みしたまひしく、
  この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹
  百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹
  横去(よこさ)らふ 何處(いづく)に到る
  伊知遲(いちぢ)島 美(み)島に著(と)き
  鳰鳥(みほどり)の 潛(かづ)き息(いき)づき
  しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を
  すくすくと 我(わ)が行(い)ませばや
  木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし孃子(をとめ)
  後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも
  齒並(はな)みは 椎菱如(しひひしな)す
  櫟井(いちひゐ)の 丸迩坂(わにさ)の土(に)を
  初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ
  底土(しはに)は 丹黒(にぐろ)き故(ゆゑ)
  三(み)つ栗(ぐり)の その中つ土(に)を
  かぶつく 眞火(まひ)には當(あ)てず
  眉畫(まよが)き 濃(こ)に畫(か)き垂(た)れ
  遇はしし女人(をみな)
  かもがと 我が見し子ら かくもがと 我が見し子に
  うたたけだに 對(むか)ひ居るかも い添ひ居るかも
とうたひたまひき。かく御合(みあひ)したまひて、生みませる御子は、宇遲能和紀郎子なり           (応神記)

 故、大毘古(の)命、更に還り參上(まゐのぼ)りて、天皇に請(まを)す時、天皇答へて詔りたまひしく、「こはおもふに、山代(の)國に在る我が庶兄(まませ)建波迩安(たけはにやすの)王、邪(きたな)き心を起せし表(しるし)にこそあらめ。伯父、軍(いくさ)を興(おこ)して行でますべし」とのりたまひて、即ち丸迩臣の祖、日子國夫玖(ひこくにぶくの)命を副へて遣はしし時、即ち丸迩(わに)坂に忌瓮(いはひべ)を居(す)ゑて罷(まか)り往きき。           (崇神記)
丸迩坂(わにさ)