宇遲稚郎子関係地

菟道稚郎子の死(日本書紀仁徳天皇即位前紀)
 太子(菟道稚郎子)の曰はく、「我、兄王(このかみ
のきみ)の志を奪ふべからざることを知れり。あに久
しく生きて、天下を煩はさむや」とのたまひて、すなは
ち自ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊(おほさざ
きのみこと)、太子、薨(かむさ)りたまひぬと聞して、
驚きて、難波より馳せて、菟道宮に到ります。ここに
太子、薨りまして三日に經りぬ。
 時に大鷦鷯尊、みむねをうちおらび哭きたまひて、
せむすべ知らず。すなはち髮(みぐし)を解き屍に跨
(またが)りて、三たび呼びて曰はく、「我が弟の皇子」
とのたまふ。すなはちたちまちにして活(いき)でたまひ
ぬ。自ら起きて居します。ここに大鷦鷯尊、太子に語り
て曰はく、「悲しきかも、惜しきかも。何のゆゑにか自ら
逝(す)ぎます。もし死(をは)りぬるひと、知(さとり)あら
ば、先の帝、我(やつかれ)を何(いかが)おもほさむや」
とのたまふ。すなはち太子、兄王(あにのみこ)に啓して
曰したまはく、「天命(いのちのかぎり)なり。誰かよく留
めむ。若し天皇のおほみもとに向(まうでいた)ることあ
らば、つぶさに兄王の聖(ひじり)にして、しばしば讓りま
すことましませることを奏さむ。しかるに聖王(ひじりの
みこ)、我死(を)へたりと聞(きこ)しめして、遠き路を急
ぎ馳(い)でませり。あに勞(ねぎら)ひたてまつることな
きこと得むや」とまうしたまひて、乃ち同母妹(いろも)八
田皇女(やたのひめみこ)を進りて曰はく、「納采(あと)
ふるに足らずといへども、わづかに掖庭(うちつみや)の
數に充(つか)ひたまへ」とのたまふ。すなはちまた棺(ひ
とき)に伏して薨(かむさ)りましぬ。ここに、大鷦鷯尊、
素服(あさのみそ)たてまつりて、發哀(かなし)びたまひ
て、哭(みね)したまふことはなはだ慟(す)ぎたり。よりて
菟道の山の上に葬りまつる。

(宇治上神社は同志社女子大学学芸学部日本語日本文学科
学外オリエンテーションの折りに撮影 2001.4.5)墓は別の折り

宇治上神社本殿(国宝
=平安時代の社殿)

伝宇遲稚郎子の墓(下二葉)

宇治神神社拝殿