石舞台の羨道部分
 〈飛鳥を学生と踏査するために作った資料です。飛鳥を訪ねてみようという方のお役に立てばと思います。〉
  出発場所は近鉄吉野線飛鳥駅前、最終到着地は近鉄橿原神宮前駅を想定しています。

▲高松塚(明日香村上平田)
被葬者は不明。終末期古墳。円墳。昭和四七年発掘。直径一八メートル。高さ約五メ ートル。凝灰岩の切石を組合せた横口式石槨。幅一・〇三メートル。長さ二・六六メー トル。高さ一・一三メートル。壁面に漆喰が塗られ、天井中央に天極五星、四輔四星と 二十八宿。東壁面に日像と青竜、男女各四人の人物像群、西史壁面には月像と白虎と男 女各四人の人物像群、北壁面の中央に玄武の壁画が描かれている。

▲桧隈安古(あこ)岡上陵→高松塚古墳の東南にある。
文武天皇陵。円墳。
▽延喜式諸陵寮
桧前(ひのくま)安占(古)岡上陵〈藤原宮御宇文武天皇。在大和国高市郡。兆域東 西三町。南北五町。陵戸五烟。〉
▽文武紀(続日本紀)
慶雲四年十一月十二日従四位上当麻真人智徳、誄人を率ゐて誄を奉り、謚して倭根子豊祖父天皇と曰ふ。即日、飛鳥岡に火葬す。
慶雲四年十一月廿日 桧隈安古岡山陵に葬り奉る。

▲欽明天皇陵(梅山古墳)
最近では見瀬丸山古墳を比定する説が有力
全長一三八メートル。石葺の厚さが一メートル近くあり、石山とも梅山ともいった。 昭和六十年に南側に平田キタガワ遺跡を発掘。推古紀二十八年の記事の内容を確認できたとする説がある。
▽延喜式諸陵寮
桧隈坂合陵〈磯城嶋金宮天皇。在大和国高市郡。兆域東西四町。南北四町。陵戸五烟。〉
▽欽明紀元年 天国排開広庭(あめくにおしはらきひろには)天皇は、男大迹(お ほどー継体)天皇の嫡子(むかひめばらのみこ)なり。母(いろは) を手白香皇后(仁賢天皇皇女)を曰(まう)す。天皇、愛びたまひて 常に左右(みもと)に置きたまふ。
▽欽明紀三二年四月 是月、天皇遂に内寝(おほとの)に崩(かむあが)りましぬ。
欽明紀三二年五月 河内の古市に殯(もがり)す。
欽明紀三二年九月 桧隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬りまつる。
▽推古紀二十年二月 皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を桧隈大陵に改め葬る。是の日に軽 の術(衢ーちまた)に誄(しのびごとたてまつ)る。
推古紀二十八年十月 砂礫(さざれいし)を以て桧隈陵の上に葺く。すなはち域外(めぐり)に土を積みて山を成す。よりて氏毎に科(おほ)せて、大柱を土の山に建てしむ。時に倭漢坂上直(やまとのさかのうへのあたひ)が樹(た)てたる柱、勝(すぐ)れて太だ高し。故、時の人、号(なづ)けて大柱直と曰ふ。

▲吉備姫王桧隈墓(欽明天皇陵の前にあり、猿石が有名)
円墳。敏達天皇の皇孫茅努(ちぬ)王妃。皇極(斉明)天皇・孝徳天皇生母。真弓岡 に葬られたのを改葬したといわれる。
▽延喜式諸陵寮
桧隈墓〈吉備姫王。在大和国高市郡桧隈陵域内西南。無守戸。〉

▲猿石
吉備姫王桧隈墓正面(西側)に置かれている。元禄年間に平田池田から発掘されたといわれる。

▲見瀬丸山古墳(欽明天皇陵か)
前方後円墳である。後円頂上部が陵墓参考地になっている。周溝は埋められ、墳丘・周堤は耕作もしくは住居となっている。墳丘全長三二〇メートル・後円部径一五〇メートル・前方部幅二一〇メートル、周溝を入れた長さ四六〇メートル・前方の幅三〇〇メートルの巨大古墳である。後円部に横穴式石室があり、盜掘を受けている。埋葬施設である玄室の長さは七・五メートル、幅約五メートル。中に二つの家型石棺が置かれている。陵墓参考地のため、閉じられているが、平成三年に偶然開口したとき、玄室内の写真を撮った人がいる。下つ道はこの前方部のところから北に伸びていたと考えられている。欽明天皇陵説がある。

▲天武・持統天皇陵
 大内陵・野口の荒墓→八角形で五段築成の古墳である。内部の様子は文暦二年の盗掘の際の調査記録である阿不幾乃山陵記によって知られる。
▽延喜式諸陵寮
桧隈大内陵〈飛鳥浄御原宮御天武天皇。在大和国高市郡。兆域東西五町。南北四町。 陵戸五烟。〉
同大内陵〈藤原宮御宇持統天皇。合葬桧前大内陵。陵戸更不重充。〉
▽天武紀朱鳥元年九月 九日 天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮(おほみや)に崩 (かむあがりま)しぬ。
▽持統紀(『日本書紀』)
元年十月廿二日 ・・・始めて大内陵を築く。
二年十一月十一日 直広肆(ぢきくわうし)当摩真人智徳。皇祖等(すめみおやたち) の騰極(ひつぎ)の次第(ついで)を誄奉る。礼(いや)なり。古には日嗣と云す。畢 (をは)りて大内陵に葬りまつる。
▽文武天皇紀(『続日本紀』)
大宝二年十二月廿二日 太上(持統)天皇崩ず。
大宝二年十二月十七日 従四位上当麻真人智徳、諸王・諸臣を率ゐて誄したてまつる。謚して大倭根子天之広野日女尊と曰ふ。是の日飛鳥岡に火葬す。
大宝二年十二月廿六日 大内山陵に合葬す。
▽阿不幾乃山陵記(高山寺文書)
阿不幾乃山陵記〈里、野口**と号(なづ)く。**〉
盗人乱入の事〈文暦二(一二三五)年三月廿日廿**両夜入れりと云ふ。〉件(くだん)の陵、形八角なり。石壇は一匝り、一町許(ばか)りか。五重な り。此の五重の峰に森十余株有り。南の面に門有り。門の前に石橋有り。此の石 門を盗人等纔(わづか)に人の一身の通る許り切り開けり。御陵の内、内陣と外陣とあり。先、外陣は方丈許りか。皆馬脳(瑪瑙)なり。天井の高さ七尺許り、 此も馬脳にして継目無し。一枚を打ち覆ふと、云々。内陣の広さ、南北一丈四五尺、東西一丈許なり。内陣に金銅の妻戸有り。広さ、左右扉各三尺五寸七分、扉 の厚み、一寸五分、高さ六尺五寸、左右の腋柱の広さ四寸五分、厚さ四寸。マグ サ三寸。鼠走三寸。冠木広さ四寸五分、厚さ四寸〈已上の金銅〉。扉の金物六、 内小四〈三寸五分許り〉、大二〈四寸許り、皆金なり〉。已上の形蓮花の返花の 如し。古不(こふ)の形は獅子なり。内陣の三方上下皆馬脳か。朱塗なり。御棺 は張物なり〈布以て張る。角を入るるなり〉。朱塗にして長さ七尺、広さ二尺五 寸許り、深さ二尺五寸許りなり。御棺の蓋は木なり。朱塗なり。御棺の床の金銅 は、厚さ五分にして、牙上を彫り透かし、左右に八、尻と頭に四、クリ(カ)タ 四〈尻二、頭二なり〉。御骨、首は普通〈より少し大なり〉。その色赤黒なり。 御脛の骨の長さ一尺六寸(→とすると身長二メートル以上になるか)、肘の長さ一 尺四寸なり。御棺の内に紅の御衣の朽ちたる少々之在り。盗人の取り残せる物等は橘寺の内に移さる。石御帯一筋、其の形は、銀兵庫クサリにして、種々の玉を以て飾れり。唐物に似たり。石二あり。形連銭の如し。表手の石の長さ三寸、石の色水精の如し。玉帯に似たり。御枕金銀珠玉を以て飾れり。唐物に似たり。言語及び難きに依りて、注さず。仮令(たとへ)ば、其の形鼓の如し。金銅の桶一〈一斗許りを納るるか〉を床に居ふ。其の形は礼盤の如し。鎖少々。クリカタ之在 り。又此の外、御念珠一連之在り。三匝の尻(琥カ)珀の御念珠を銅の糸を以て 貫きたり。多武峰の法師取り了せり。又彼の御棺の中に銅のカケカケ(ネ)二つ 之在り。已上、記此の如し。

▲河原下茶屋遺跡
河原寺と橘寺の間を東西に走っていた道路と南北に交差する細い道の交差点が出土した。東西道路の南端が亀石に通じる道になる。また細い道を北上した養護学校のところで、丹波の評(こほり=郡の前に使用された文字)の木簡が出土した。(和田萃氏の説明を得ました。)

▲橘寺
▽上宮聖徳法王帝説
太子七寺を起てたまふ。四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺・池後寺、葛木寺なり。
▽日本書紀通証
推古十四年、皇太子勝鬘経講説の夜、蓮の花零降(ふ)る。花の長さ二三尺。方三四 丈の地に溢る。其の地に即(つ)きて、誓ひて寺堂を立つ。是、今の橘樹寺なり。(『聖徳太子伝暦』に同様の記事がある。ただし、「是、今」以下なし。)
▽ 古歌
橘の 寺の長屋に 吾が率寝し 童女(うなゐ)はなりは 髪上げつらむか   (一六ー三八二一)
▽ 天皇御製歌
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山                  (一ー二八)

▲川原寺(弘福寺)跡
▽ 孝徳紀白雉四年六月 天皇旻法師命終しぬと聞しめして弔はしめたまふ。
▽ 厭世間無常歌二首
 生き死にの 二つの海を 厭はしみ 潮干の山を しのひつるかも       (一六ー三九四九)
 世の中の 繁き仮庵に 住み住みて 至らむ国の たづき知らずも       (一六ー三九五〇)
  右の歌二首は河原寺の仏堂の裏なる倭琴の面に在り

▲飛鳥川
▽ 明日香皇女木躪(きのへ)殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
飛鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひなびける 玉藻ぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻ぞ 枯るれば生ふる 何しかも 吾王の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こや)せば 川藻の如く 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや  (中略) 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思(しの)ひ徃かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 吾王の 形見かここを                                   (二ー一九六)
    短歌二首
明日香川 しがらみ渡し 塞かませば 流るる水も のどにかあらまし        (二ー一九七)
明日香川 明日だに見むと 念へやも 吾王の 御名忘れせぬ            (二ー一九八)
▽ 登神岳山部宿禰赤人作歌并短歌
三諸の 神奈備山に 五百枝挿し 繁に生ひたる つがの木の いやつぎつぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 旧き都は 山高み 川遠 しろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清けし 朝雲に 鶴は乱る 夕霧に かはづはさわく 見るごとに 音のみし泣かゆ 古思へば                                                     (三ー三二四)
  反歌
明日香川 川淀去らず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 孤悲にあらなくに         (三ー三二五)
▽ 故郷豊浦寺之尼私房宴歌三首
明日香川 逝き廻る丘の 秋芽(はぎ)は 今日降る雨に 落(ち)りか過ぎなむ  (八ー一五五七)
    右一首丹比真人国人

▲飛鳥川右岸庭園遺構
 1999年6月飛鳥浄御原宮西北にあたる小字出水とゴミ田で庭園遺構が発見された。ここはケチン田の酒船石とよばれる石造物が大正五年五月に発見された場所でもある(飛鳥資料館にレプリカがある)。今回の発掘では導水のための穴を穿った石が発見されている。(2001年3月の新聞報道では東西二〇メートル、南北二〇〇メートルの広大な池で、池中の島に渡る橋状の道が付けられているという。写真参考。)白錦の苑かといわれる。
▽天武紀十四年十一月
戊申に、白錦後苑(しらにしきのみその〈原文の苑は草冠の下にウ冠がある〉)に幸す。

▲川原板葺宮伝承地
明日香村役場の東北の道を入ったところにあり、古代の井戸が発掘されている。復元された井戸の下を掘れば今でも水が涌き出すという。
▽皇極紀二年四月廿八日
権宮(かりみや)より移りて飛鳥の板蓋(いたぶき)の宮に幸す。
▽皇極紀<四年六月一二日〉
板蓋宮大極殿で三韓の調を進る時を狙い、天皇の前で中大兄、中臣鎌足、蘇我倉山田麻呂達が入鹿を暗殺(佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田が刺殺)し、大化の改新が行なわれた。

▲飛鳥浄御原宮跡
▽川原板葺宮伝承地の東北の角のところにある小屋を建てるにあたり発掘調査したところ、溝の中から大伯皇女や大津皇子の名を含む木簡の削り屑が発見されたので、ここは飛鳥浄御原宮である可能性が強くなった。
▽天武紀元年  是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に遷りて居します。これを飛鳥浄御原宮と謂ふ。
▽二年二月 天皇、有司に命せて壇場を設けて飛鳥浄御原宮に即帝位す。
▽朱鳥元年七月 七日、元(はじめのとし)を改めて朱鳥元年と曰ふ。よりて宮を名けて 飛鳥浄御原宮と曰ふ。
▽ 壬申年之乱平定以後歌二首
大君は 神にしませば 赤駒の 腹ばふ田井を 都となしつ           (一九ー四二六〇)
右一首大将軍右大臣大伴卿
大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都となしつ            (一九ー四二六一)
作者未詳
▽ 従飛鳥遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌
采女の袖吹き返す飛鳥風都を遠みいたづらに吹く                   (一ー五一)
▽ 天皇賜藤原夫人御歌一首
わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後             (二ー一〇三)
▽ 藤原夫人奉和歌一首
わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ         (一〇四)

▲嶋宮(石舞台古墳の西の信号の北西角の食堂の地下、およびその下の水田のところから古代の朝鮮式の四角の池を含む庭園ーしまーが発掘されたので、ほぼここに間違いないとみられている。)
▽天武即位前紀にはじめて見える。島大臣(しまのおおほおみ)とよばれた馬子の邸宅(島家)のあとに作られ、血縁関係を通じて伝領され、島皇祖母命とよばれた舒明天皇の生母糠手姫皇女を通じ、皇極・天智・天武を介して草壁(日並)の宮となったと考えられている。
▽ 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌并短歌(のうち短歌)
   反歌
嶋の宮の 勾の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜(かづ)かず           (二ー一七〇)
▽ 皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首(の内)
高光るわが日の皇子の万代に国治らさまし嶋の宮はも               (二ー一七一)
嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君坐さずとも                 (二ー一七二)
高光る吾が日の皇子のいましせば嶋の御門は荒れずあらましを          (二ー一七三)

▲石舞台古墳
▽明日香村島ノ庄。方墳。上円下方墳。早くから封土が失われ、横穴石室だけが残っている。天井石が露呈しているので、石舞台と呼ばれる。昭和八年と十年に石室内の土砂を除いて調査された。外堤は南北約八三メートル。東西約八一メートル。石材は花崗岩。玄室の長さ約七・七メートル。幅約三・五メートル。高さ約四・七メートル。玄室底部四周に配水溝がり、羨道に及ぶ。調査中土師器・須恵器が出土。『日本書紀通証』は蘇我馬子の桃原(つきはら)墓とする。馬子の死んだ推古三四(六二六)年と築造年代は矛盾しないといわれる。
▽推古紀三四年五月廿日条 大臣(馬子)薨ぬ。よりて桃原墓に葬る。

▲酒船石
▽庭園に配された石か。東北の谷には飛鳥池遺跡が発見され、北西の斜面には周囲に巡らせたとみられる天理砂岩を用いた石垣が発見されている(飛鳥池遺跡の項参照)。
また西の山裾の田からは、やはり天理砂岩を用いた溝の遺構が見つかっている。

▲藤原釜足誕生伝承地ー小原〈おほはら〉
▽ 天皇賜藤原夫人御歌一首
わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後              (二ー一〇三)
▽ 藤原夫人奉和歌一首
わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ          (一〇四)

▲飛鳥池遺跡
▽古代の金細工や貨幣鋳造のための工房の在った場所。富本銭の枝状のものが発見されて話題になった。ここには設計変更の上、奈良県立万葉文化館が建設された。富本銭の出たこの遺跡は史跡に指定された。
▽この東側のところから北上する運河の遺構が発見されており、斉明天皇の二年九月条に、
時に興事(おこしつくること)を好む。廼ち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て,石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を重ねて垣とす。時の人謗りて曰はく、「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材爛れ、山椒(やまのすへ)埋れたり」といふ。又謗りて曰はく、「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。〈若しは未だ成らざる時に拠りて、此の謗を作せるか〉。
とみえる運河と考えられている。南の酒船石の西北のところから山に巡らせた石垣が見つかっている。
またこの酒船石のある山の北麓のところで万葉文化館への取り付け道路工事をするための事前調査が行われ、階段状石敷き遺構や亀(鼈)型石造物を配した水を流す施設が発見された。

▲飛鳥坐神社 
▽御田祭で有名である。元は鳥形山に祭られていたものを天長年間に遷したという。以前は社殿のない、拝殿から林を拝む古い形の神社であったが、丹生河上社の上社が、ダムに水没することになり、高い場所に新築されたので、旧社殿を移して神殿を建築し、様子を一新した。また、1998年9月に奈良県を通過し、最大瞬間風速59メートルを記録して、多くの被害をもたらした台風のために社叢の古木はほとんど倒れた。なお奧には性神を多く祭っている。

▲飛鳥元興寺(東門・飛鳥寺、南門・元興寺、西門・法興寺、北門・法満寺)
▽崇峻紀元年
(物部守屋を討った後)蘇我大臣、亦本の願の依(まにま)に、飛 鳥の地にして、法興寺を起つ。
▽ 同年
飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊ちて、始めて法興寺を作る。此の地を 飛鳥真神原と名く。亦は飛鳥の苫田と名く。
▽推古紀十四年四月
是の日に、丈六の銅像を元興寺の金堂に坐しむ。時に仏像、金堂の 戸より高くして堂に納れまつること得ず。(中略)然るに鞍作鳥の秀 れたる工(たくみ)なること、戸を壊たずして堂に入ること得。
▽皇極紀三年正月
(中臣鎌子)偶中大兄の法興寺の槻の樹の下に打毬(まりくう)る 侶に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毬の随脱け落つるを候(ま も)りて掌中に取り置(も)ちて、前みて跪(ひざまづ)きて恭(つ つし)みて奉る。中大兄、対ひ跪きて敬(いや)びて執(と)りたま ふ。これより相(むつ)び善みして倶に懐(おも)ふ所を述ぶ。
▽天武紀九年四月 且(また)以為(おも)ふに、飛鳥寺は司の治に関はるべからず。然 も元より大寺として官司恒に治めき。復嘗って有功(たすか)れたり。 是以て猶官(つかさ)治むる例に入れよ。
▽続日本紀文武天皇四年三月、道昭和尚卒伝
(前略)本朝に還帰りて、元興寺の東南の隅に、別に禅院を建てて住す。時に天下の行業の徒。
和尚に従ひて禅を学ぶ。
▽ 舎人娘子雪歌一首
大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに        (八ー一六三六)

▲水落遺跡とその付近
▽斉明紀六年五月 皇太子(中大兄)、初めて漏剋(ろうこく)を造る。

▲雷岳
▽日本霊異記 ・・・時に、雷光を放はなちて明りかがやけり。天皇見て恐り、偉しく幣 帛を進り、
落ちし処に還さしめしかば、今に雷の岡と呼ぶ。                   (上巻第一縁)
▽ 天皇御遊雷岳之時柿本人麻呂作歌一首
大君は 神にしませば 天雲の 雷のうへに 廬せすかも                (三ー二三五)

▲甘橿岡
▽甘橿岡坐神社
▽允恭紀四年秋九月 戊申に、詔して曰はく、「群卿百寮及び諸の国造等、皆各言さく、 『或いは帝皇の裔、或いは異しくして天降れり』とまをす。然れども 三才顕れ分れしより以来、多に万歳を歴ぬ。是を以て、一の氏蕃息〈 うまは〉りて、更に万の姓となれり。其の実を知りがたし。故、諸の氏姓の人等、沐浴斎戒して、各盟神探湯〈くがたち〉せよ」とのたま ふ。則ち甘橿丘の辞禍戸★〈岬〉〈ことのまがへのさき〉に探湯瓮〈 くかへ〉を坐ゑて、諸人を引きて赴かしめて曰はく、「実を得むものは全からむ。偽らば必ず害れなむ」とのたまふ。〈或いは泥を釜に納れて煮沸して、手を攘〈かきはつ〉りて湯の泥を探る。或いは斧を火 の色に焼きて、掌に置く。〉是に、諸人、各木綿繦を著て、釜に赴きて探湯す。則ち実を得る者は自づからに全く、実を得ざる者は皆傷れ ぬ。是を以て、故に詐る者は、愕然〈お〉ぢて、豫め退きて進むこと 無し。是より後、氏姓自づから定りて、更に詐る人無し。
▽皇極紀三年冬十一月 蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘橿岡に雙べ起つ。大臣の家を呼 びて、上の宮門〈みかど〉といふ。入鹿の家をば、谷〈はさま〉の宮 門と曰ふ。男女を呼びて王子といふ。家の外に城柵を作り、門の傍に兵庫を作る。門毎に、水盛るる舟一つ、木鉤数十を置きて、火の災に 備ふ。恒に力人をして兵を持ちて家を守らしむ。云々

▲豊浦宮
▽推古天皇即位前紀 冬十二月の壬申の朔己卯〈八日〉に、皇后豊浦宮に即天皇位す。
▲豊浦寺
▽光仁天皇即位前紀〈続紀〉
葛城の 寺の前なるや 豊浦寺の西なるや をしとどとし とど
桜井に 白璧しずくや 好き璧しづくや をしとどとしとど
然すれば 国ぞ昌ゆるや 吾家らぞ昌ゆるやをしとどとしとど

▲小墾田宮
▽推古天皇紀十一年冬十月己亥の朔壬申に、小墾田宮に遷る。

▲剣池
▽孝元天皇記 この天皇の御年、伍拾漆歳。御陵は剣池の中の岡の上に在り。
▽皇極天皇紀六年夏六月 戊申〈六日〉に、剣池の蓮の中に、一つの茎に二つの萼〈はなぶさ〉ある者有り。豊浦大臣、妄に推して曰はく、「是、蘇我臣の 栄えむとする瑞なり」といふ。即ち金の墨を以て書きて、大法興寺の 丈六の仏に献る。

▲軽の衢
▽近鉄橿原神宮駅東口を出て最初の交差点→東西の道は阿倍山田道の西への延長線上にある。南北の道はほぼ古代の下ツ道にあたり、南に下って見瀬丸山古墳の正面に行き当たる。
見瀬丸山古墳は大和最大の前方後円墳であり、最近後円の石室が開いて中の様子がわかり、石棺が二つある様子は推古紀廿一年の記事に対応するとして、欽明天皇陵は梅山古墳ではなく、見瀬丸山古墳であるとする説が有力視されるにいたっている。
▽ 柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が 里にしあれば ねもころに 見まくほしけど やま ず行かば 人目を多み まねく往いかば 人知りぬべみ さねかずら 後もあはむと  大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵の 隠りのみ 恋つつあるに 渡る日の 暮れ ぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉づさの 使の言へば あづさゆみ 声(おと)に聞きて 言はむすべ  為むすべ知し らに 声(おと)のみを 聞きてありえねば 吾恋ふる 千重の一重も 慰もる 情も ありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に 吾立ち聞けば 玉だすき 畝火の山 に 鳴く鳥の 音(こえ)も聞こえず 玉ぼこの 道行く人も ひとりだに 似てし去 かねば すべを無み 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる                                                    (二ー二〇七)
   短歌二首
秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる 妹を求めむ 山道(やまじ)知らずも        (二ー二〇八)
黄葉の 落ちゆくなへに 玉づさの 使を見れば あひし日思ほゆ          (二ー二〇九)

▲畝火山(近鉄橿原神宮駅西の山)
▽ 中大兄近江宮御宇天皇三山歌
香具山は 畝火山を愛しと 耳成と あい争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 嬬を争ふらしき                                      (一ー一三)
反歌
香具山と 耳成山と あひしとき 立ちて見にこし 印南国原               (一ー一四)
わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今宵の月夜 清明にこそ               (一ー一五)


                  
       
彌勒石 木の葉堰の用材と考えられる              上は現在の木の葉堰
                (和田萃氏説)
 酒船石  

   酒船石のある山の西麓の発掘の様子
                                茶色の溝の底には酒船石の西の切石積
                                と同じ天理砂岩が敷かれている。

                      天理砂岩

     
飛鳥川右岸苑池遺構第二次発掘の様子(左の写真には出っ張りが池の中に西向きに出ている
のがわかる。右側の写真はその橋状部中央の下に埋められた水を南北に通わせる下樋の一部
が見えているところ。)
                                          
飛鳥学習のしおり